2012年5月30日水曜日

バッグのレビュー


Posted By escblog on 2012年4月24日


ハンプシャー、ハンプシャー州(PRWEB英国)2012年4月18日

過酷な環境での電子ディスプレイの

グレーター使用ROLECs polyDOOR GRPエンクロージャのウィンドウのバージョンの需要を押し上げています。

以前はガラス繊維強化ポリエステルのエンクロージャの固体窓のバージョンでは、最も人気があった。今両方のバージョンの同じ需要があります。


ROLECsのpolyDOORケースはcompanysの人気polyTOP範囲ではなく、ウォールマウントエンクロージャとして使用するために最適堅牢なヒンジドアを加えて基づいています。

代表的なアプリケーションは、サービスまたは調整のための頻繁なアクセスは、海洋エレクトロニクス、工業プロセス、機械制御や安全監視として必要とされる電子機器や電気機器が含まれています

ROLECsのpolyDOORプラスチックエンクロージャは×120×100ミリメートル140から320×200×120ミリメートルの範囲の8サイズでご利用いただけます。彼らは過酷な屋内または屋外環境用に設計されています

標準的な材料は、UL 94 V-0定格難燃性ガラス繊維強化ポリエステルである。防食のドア固定具が含まれているとして、ステンレス鋼の内部M6取り付け茂みがあります。二つのバネ付きのヒンジは、扉は総アクセスのために除去することができます。

2012年5月18日金曜日

フロリダ・タンパ発 KeyLime Newsletters


先月号に引き続き、定番商品に関する、読者の方々からのアンケート結果です。

ギフトの定番: 日本向けギフトは、フルーツ(チェリー、ブルーベリー)をそのシーズンにギフト会社に頼んで送っています。 下記のサイトがいつも利用する会社ですが、他社と比べて多少安いし、とにかく良心的で、果物が不作の年にはきちんと連絡があり、希望の量送れないので、と、お金が多少戻ってきたこともあります。 家族、友人にもフルーツは一番喜ばれます。

アメリカ内ギフト: 母の日、お誕生日、その他の祭日などでは、下記のサイトを利用しています。 特に義母は洋梨が好きなので、この会社のものは最高だそうです。 あと日本のヨックモックを義母に送ったらすごく喜ばれました。 これはセンカとか高島屋ギフトから送れます。
ヨックモック センカ

2012年5月17日木曜日

聖なる力 43


「敵の目的は・・・?」
「裏切り者の処刑!?」
「そんな!」
「ッ諦めるのはまだ早いわ!大気中に異常なエネルギーが満ちている!西の方向よ!」

マーキュリーの指示に、セレネ達は一目散に駆け走った――。
その後ろを、ちびうさとルナPが追いかけてることも知らず。

聖なる力 43

マーキュリーの言われた場所についてみると、そこは誰もいない大きな橋の上だった。
そこにはペッツとカラベラス、そして泡のような物に包まれて捕らえられているベルチェとコーアンの姿があり、セーラームーン達は頷く。

「お姉様!セーラー戦士達と戦うのはもうやめて!」
「何だと?」
「貴方たち!どうしちゃったって言うの!?」

「私たち� ��、暗黒の月ブラックムーンの真の姿に気付いたんですわ!」
「ブラックムーンは、目的のためには全てを踏みつけにする恐ろしい一族だという事に!」

二人はペッツとカラベラスの目を覚ますように捕らえられてるのにも関わらず必死に説得する。

「戦いとはそういうもの・・・戦って勝ち抜いた者が正しいのよ!」
「愛だの仲間だのと・・・くだらない!死んでおしまい!!」

『ちょっと待ったー!!』
「「!」」

セーラームーンの声が響き、カラベラスは振ろうとしていたスティックを止める。
上空を見てみると、鉄橋の上に満月をバックに6人のセーラー戦士の姿があった。

「それは少し違うんじゃない?」
「「セーラーセレネ!」」

「私たちが戦うのはこの美しい星の為!」
� �心優しき人々の為!」
「草木や花、生きとし生ける者の為!」
「愛と幸せと、美しい未来の為!」

2012年5月15日火曜日

PMI.com フィリップ モリス インターナショナルについて


フィリップ モリス インターナショナル(PMI)は180カ国以上でその製品を販売する国際的大手たばこ会社です。 2011年、米国を除いた紙巻たばこの国際市場で16.0%(概算)、米国と中国を除いた国際市場では28.1%の市場シェアを獲得しました。また市場シェアから見れば、当社は13カ国で第1位を誇っており、そして紙巻たばこ市場規模上位30カ国のうちさらに9カ国では第2位となっています。

当社は、株主に高い利益還元を行うこと、高品質で革新的な製品を成人喫煙者に提供すること、そして、たばこ製品による害を低減することを目指しています。 害の低減に基づいた包括的な規制を支持し、疾病リスクを減らす可能性のある製品を開発することにより、たばこ製品による害の低減という目標に向けて取り組んでいます。

2012年5月14日月曜日

Cottage Window:コソボ紛争報道に多用された英語


これは平成11年7月に書いたものです

 ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナでの民族紛争が解決の方向に向かい始めたのもつかの間、新ユーゴスラビアのコソボ自治州でセルビア人によるアルバニア系住民に対する迫害が激しさをまして行った。ランブイエ会議での西ヨーロッパ各国の努力も空しく、ユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領は和平案を受け入れないまま大規模な民族浄化作戦を準備し始めた。その民族浄化作戦が展開され始めた3月24日、NATO軍によるセルビア空爆は始まった。NATO軍のセルビア空爆は約3ヶ月続き、ミロシェビッチ大統領が、軍、警察をコソボから引き上げ、NATO軍がコソボに進駐することを認めて終結した。

 各国の治安維持部隊がコソボに進駐するにつれ、350人を越える規模の大量虐殺の被害者が埋められているのが発見されるなど、セルビア軍、警察のアルバニア人迫害の実態が次々に明るみに出ている。また、アルバニア人難民の帰還が始まると、アルバニア人の仕返しをおそれたセルビア人住民のコソボ脱出も伝えられたが。セルビアにいる国民にはコソボの現実をひた隠しにし、NATOに対して勝利して戦争が終結したと宣伝するミロシェビッチ大統領は、コソボの実態が明るみに出るのをおそれてこれらのセルビア人のセルビア入りを拒み、コソボに追い返された人々は難民化しているという。また、ロマと呼ばれるジプシーが、セルビアに協力的だったとしてアルバニア人によって迫害される事件も相次いでいる。
 コソボ問題を巡って、悲惨な現実を伝える陰鬱な言葉がメディアにあふれた。以下に、そのいくつかを取り上げてみたい。

 空爆開始数日後に墜落したF117ナイト・ホーク隠密戦闘爆撃機乗組員の救出を報道したタイムズ紙は、3月29日付の「バルカン戦争:セルビア軍を爆撃/コソボ難民大量流出阻止へ/隠密機乗組員救出劇」と題された記事によると墜落したF117Aナイト・ホークの乗組員は、墜落から6時間後には救出されていた。また、NATO軍はコソボ全域と、北緯44度線以南をセルビア軍排除地域に設定し、空爆を劇的に拡大した。この記事はコソボのアルバニア系住民にたいしセルビア軍が焦土作戦を展開していることにふれ、出来るだけ多くの人命を救うため、NATO軍は一種の時間との戦いを行っ� ��いると述べたNATO報道官の言葉を伝えている。

2012年5月12日土曜日

Staging.enlightus.net Blogs | Groups | Vitkin Weight Loss Clinic Birmingham Al


 
 
 
 
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Vitkin Weight Loss Clinic Birmingham Al
 
 
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2012年5月11日金曜日

法制・公会計部会及び公会計小委員会合同会議(平成21年7月23日開催)議事録 : 財務省


〔 田近部会長 〕お暑いところ、お集まりいただきましてありがとうございます。ただいまから財政制度等審議会財政制度分科会、法制・公会計部会及び公会計小委員会の合同会議を開催いたします。皆様におかれましては、ご多用のところ、ご出席いただきましてありがとうございます。

この会議ですけれども、本年1月に財政制度分科会総会において、分科会長から法制・公会計部会長の指名を私が受けました。そして、部会長代理には私から中里先生にお願いしています。どうぞよろしくお願いします。そして、部会の構成についてですけれども、同じ財政制度分科会総会において、法制・公会計部会を設置するとともに、従前の公企業会計小委員会について、名称を公会計小委員会と改め設置することになりました。私から公会計小委員会の委員長には水口委員を指名させていただいております。どうぞよろしくお願いします。まず、水口委員から公会計小委員会についてご説明していただきたいと思います。よろしくお願いします。

〔 水口委員長 〕水口でございます。よろしく。

公企業会計小委員会は、従来から特殊法人等公企業以外に省庁別財務書類作成基準等、広く審議してまいりましたけれども、このたびの財審の改選に伴いまして、新たに公会計小委員会と名称を変更いたしました。公会計小委員会には、これまでどおり省庁別財務書類等の作成基準等を審議していただく公会計ワーキンググループと、独立行政法人会計基準について総務省に設置されております、独立行政法人会計基準研究会と共同で審議をしていただきます、共同ワーキンググループを設置しております。公会計ワーキンググループの座長には黒川委員を、ワーキンググループ座長代理には木委員を指名させていただきました。よろしくお願いいたします。

〔 田近部会長 〕よろしくお願いします。

これから、きょうの会議の中身に入らさせていただきますけれども、それに先立ち、きょうは法制・公会計部会及び、今、水口さんのおっしゃられた公会計小委員会合同会議の初めということで、ご出席の方から一言ずつごあいさつをいただければと思います。安藤先生から、すいません。

〔 安藤委員 〕専修大学の安藤と申します。どうぞよろしくお願いします。

〔 岩本委員 〕東京大学の岩本でございます。よろしくお願いいたします。

〔 碓井委員 〕明治大学の碓井でございます。どうぞよろしく。

〔 小林委員 〕早稲田大学、小林でございます。よろしくお願いいたします。

〔 木委員 〕公認会計士の木でございます。よろしくお願いいたします。

〔 中里委員 〕東大の中里でございます。よろしくお願いいたします。

〔 増田委員 〕会計検査院の増田でございます。よろしくお願いいたします。

〔 保田委員 〕関西電力の保田でございます。よろしく。

〔 宗岡委員 〕関西大学の宗岡でございます。よろしくお願いいたします。

〔 田近部会長 〕どうもありがとうございました。そのほか、会議のメンバーリストはお手元の資料にございますから、それでご欠席の方のご紹介にかわらせていただきたいと思います。以上が委員のご紹介です。

続いて議題に入らせていただきます。報告事項として、きょうは3つ議題を用意しています。事務局から、これから報告をいただきますけれども、議題としては以下の3つです。

第1の議題が、「平成19年度 国の財務書類」の作成・公表について。いわゆるバランスシート等の話です。

第2の議題が、財務書類の作成・公表の早期化を図るため、現在、財務省において開発を行っている「財務書類作成システム」の開発状況について。

第3の議題が、平成20年度財務書類の作成・公表等についてであります。具体的な内容としては、次の2つであります。

1つ目が、平成20年度の国の財務書類及び省庁別財務書類の公表時期の早期化。

2つ目が、当法制・公会計部会、公企業会計小委員会、公企業会計ワーキンググループで、平成19年6月26日に取りまとめました、事務事業ごとのコスト情報の作成についてであります。

以上3つの議題を事務局から説明いただいて、ご意見を賜りたいと思います。それでは資料に沿って、事務局から説明をいただきます。

〔 森公会計室長 〕公会計室長の森でございます。よろしくお願いいたします。座らせていただきます。

まず、第1の議題でございますが、平成19年度、国の財務書類についてご説明いたします。資料1関係でございまして、本体はこの冊子のものでございますが、ポイントを資料1−1でご説明させていただきます。

国の財務書類については、先生方のご指導をいただきまして、平成15年度分から5回目の公表となります。これにつきましては本日の会議を経まして、明日、7月24日公表させていただきたいと考えております。平成19年度国の財務書類のポイントといたしまして、まず全般的な事項でございますが、行政コストにつきましては減少。企業会計ベースで見た当期純損失に相当する金額につきましては、11.9兆円の赤字という形でございます。

1枚おめくり願います。国の財務書類ということで、バランスシートにつきまして、平成19年度末の一般会計と特別会計を合わせたものでございますけれども、まとめてございます。資産の部、左側でございますが、合計694.9兆円という形になっています。そのうち現金・預金につきましては、31.9兆円、うち外貨預金が13.7兆円、有価証券が104.7兆円でございまして、そのうち米国債等外貨証券が92.4兆円となっています。あと未収金。これは相続税の納税猶予分とかも入っておりますが、これが15.1兆円、財政投融資などの貸付金が190.2兆円、年金の市場運用に寄託している運用寄託金が112.8兆円となっております。次は有形固定資産でございまして、国有財産36.8兆円。これは土地のほか、例えば国有林野とか自衛隊で持っております航空 機とか艦船とか、そういうものをすべて合わせたものでございますが、それが36.8兆円になっておりまして、その他いわゆる公共用財産としまして、道路とか堤防とか海岸の護岸とか、そういうものが140.7兆円とかなりの金額になっております。あと、出資金につきましては、大きなものをこの四角のところで挙げておりますが、全体で57.9兆円でございまして、国際協力銀行、JBICとか、高速道路の保有機構とか、福祉医療機構とか、そういうところが大どころになっております。

他方、負債につきましては、右側に表記しています。政府短期証券は、外為証券が105兆円で、国内部の保有分と相殺等しますので、全体で73兆円。公債につきましては、全体で675.7兆円でございまして、建設国債237兆円、特例国債は283.8兆円。次の預託と合わせまして、財投の貸し付け等の原資となります財投債につきましては139.9兆円となっております。あと、公的年金積立金のいわば見合い資産として負債の部に計上しておりますが、公的年金預り金が140.6兆円。発生主義でございますので、公務員の退職給付引当金が計上され14.1兆円でございまして、負債の部が総額で977.8兆円となっており、相変わらずといいますか、資産負債差額につきましては、282.9兆円のマイナスとなっております。

めくりますと、国の行政コストでございます。平成19年度業務費用につきましては、全体で118.4兆円。これは注1にございますけれども、公共事業費や施設費というのは発生主義ベースでは計上されませんで、そのかわり減価償却費等を計上した姿でございます。性質別に分類しておりまして、まず、人件費が5.6兆円、事務費が4.4兆円でございまして、あと国が個人に直接給付する経費、例えば年金、政管健保、失業給付、労災給付でございますが、そういう社会保障関係の経費が48.5兆円、補助金等という形で団体に支出される経費、これは独法に対する運営交付金等も含まれますが、そういうものが27.8兆円。地方団体への一般的な交付金として支出される地方交付税が16.2兆円、あと減価償却費が4.7兆円、利払費が9.4兆円が、平成19年 度の業務費用の一覧でございます。

めくっていただきまして3ページ以降は、一般会計と特別会計合わせたものにつきまして、対前年比比較という形で要因分析等を実施しておるところでございます。

めくっていただきまして4ページでございますが、18年度と19年度、四角という形で資産・負債の大きさが書いてございます。これは行革推進法等に基づきまして、資産・負債につきましては圧縮を行っておりまして、平成19年度におきましても資産が9.6兆円、負債が5.8兆円、それぞれ圧縮されております。資産の減少の主な要因でございますけれども、貸付金といたしまして27兆円減、これは財投改革による貸付金の減少等。年金の運用寄託金につきましては、財投から返ってきたものにつきまして市場運用等行うこと等で、16.1兆円増えています。有価証券のところでございますが、1つは外為特会が持っている外貨証券、これは利子等による新規購入分と評価益の分を合わせたものでございますが、これが10.1兆円の増でございます� �あと出資金のところもあわせて見ていただきたいのですが、19年度の10月に日本郵政公社が日本郵政株式会社に改組されたことによりまして、日本郵政公社分の出資が10.1兆円減り、日本郵政株式会社への出資が2.6兆円増えております。国が義務的に持つものは出資と整理されますが、義務的に持つ以外の株式等につきましては、有価証券という形で整理しておりまして、有価証券の額が、日本郵政公社の改組による分5.1兆円増えてございます。

次のページを見ていただきますと、負債でございます。負債自体は5.8兆円の減少でございまして、郵貯の預託金が31.5兆円と減少した等、預託金が31.9兆円減っており、公的年金預かり金についても4.2兆円減っています。公債につきましては、この年は建設国債6兆円、特例国債19兆円新規発行しておりますけれども、償還部分もございますので、建設国債につきましては243.3兆円から237兆円と6.2兆円減り、特例国債につきましては16.1兆円増えております。また、財投等で持っていました国債につきましては保有減がございまして、その影響で14兆円ネットで公債が増えております。

そういうことで、資産・負債差額は国債発行等によりまして3.8兆円、対前年比で悪化しておるという姿でございます。

2012年5月9日水曜日

予測ではあるが、ニューヨークに地震が.....!! - へびのように賢く、はとのように素直であれ


ニューヨークに地震があるなんて、
考えたこともなかったが、
1943年、ニコラ・テスラが実験中に
人工地震を引き起こした実例もあるし......。
国際連合ビルに地下爆弾(miniニューク)が仕掛けられているという噂や、
あれこれ総合すると.........。!!
 
近々、ニューヨークに人工地震を起こすよ、と言う、前口上とも受け取ることが出来る。クラッシュプランは実在するし、その時期を狙っているに過ぎない。
『ニューヨーク、地震で壊滅!』と言うことになれば、FEMAの出番の口実が出来る。地震で国連本部崩壊と言うことで、テロの自作自演が、地震との絡みで
複雑化して、四川省の大地震以上のクラッシュを招来する。

2012年5月7日月曜日

教えて!goo[ローザ・パークス]についての検索結果 ( 約12件中 1~10件を表示 )


…こんにちは、いつもお世話になっています。今日は公民権運動の話について質問させていただきます。 1955年アラバマ州モントゴメリーで、黒人女性が白人男性にバスの席を譲らなかったが...…

投稿日時:2005/10/06

回答件数:1件

…学校の総合の授業で、平和についての学習をしています。 私は、黒人差別について調べているのですが、なかでもキング牧師のことについて知りたいなぁ、と思って資料を探しています。 ...…

投稿日時:2006/07/14

回答件数:3件

…アメリカの社会に大きな影響を与えたアメリカ人女性って誰がいますか?…

2012年5月6日日曜日

【準備中】 第9回日本うつ病学会総会


The 9th Congress of the Japanese Society of Mood Disorders

テーマ:今こそ問う、うつ病のパースペクティブ

会長:石郷岡 純  東京女子医科大学医学部精神医学教室 主任教授

会期:2012年7月27日(金)・28日(土)

会場:京王プラザホテル

2012年5月4日金曜日

明石市 和み治癒院 背骨・骨盤矯正(腰痛・肩こり・ひざ痛)・リラクゼーション


1.  個人情報の適切な収集・利用・提供について

当院は、サービスを提供するために必要な範囲でご利用者様の個人情報を収集し、収集した個人情報は、ガイドラインに則り収集目的の範囲内で利用・提供を行います。

 
2.  個人情報の安全管理について

当院は、ご利用者様の個人情報の漏えい、滅失、き損を防ぐため、必要かつ適切な安全管理措置を講じるとともに、その改善に努めます。

 
3.  個人情報に関する法令及びその他の規範の遵守について

当院は、個人情報の取扱いについて、個人情報の保護に関する法律、その他個人情報保護関連法令並びにガイドラインを遵守します。

2012年5月2日水曜日

Definition Of オーロラ (イリノイ州) And Synonym Of オーロラ (イリノイ州) (Japanese)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オーロラ

ファイル:Aurora Stolp Island Fox R.JPG

フォックス川からストルプ島を眺める。中央にパラマウント劇場、右は市民会館とリバーウォーク、後方はリーランド・タワー

正式名称: City of Aurora
標語: 「常に一番の都市」 (A City Second to None)
愛称: 「光の都市」
アメリカ合衆国
イリノイ州
ケーン郡 (en, デュページ郡 (en, ケンドール郡 (en, ウィル郡 (en
地域オーロラ (en, ネイパービル (en, ウィートランド (en, シュガーグローブ (en, バタビア (en, ウィンフィールド (en, オスウィーゴ (en
フォックス川 (en
標高722 ft (220 m)
座標北緯41度45分48秒 西経88度17分24秒 / 北緯41.76333度 西経88.29度 / 41.76333; -88.29
面積39.42 sq mi (102 km²)
 - 陸地38.53 sq mi (100 km²)
 - 水面0.89 sq mi (2 km²)
人口171,782人 (2008年)
人口密度3,711.5 /sq mi (1,433 /km²)
創立1834年
市制移行1845年
行政市長・議会制 (en
首長トム・ワイスナー (en
等時間CST (UTC-6)
 - 夏時間(DST)CDT (UTC-5)
郵便番号60502, 60503, 60504, 60505, 60506
市外局番630, 331
住民の呼称オーロラン

イリノイ州内の位置

ウィキメディア・コモンズ: Aurora, Illinois
ウェブサイト: www.aurora-il.org
[1][2]

オーロラ(英: Aurora)は、アメリカ合衆国イリノイ州では第2の都市であり、人口は171,782人である。シカゴ都市圏に属する。オーロラ市は1881年にアメリカ合衆国では最初期に全て電力による街灯を導入したので、「光の都市」と呼ばれる。公式には1908年にこのニックネームを採用した。

歴史

フォックス川岸のオーロラとなった地域に開拓者が訪れる前は、インディアンの集落があった。ブラック・ホーク戦争の後の1834年、マカーティ兄弟が到着して川の両岸の土地を所有したが、西岸の土地は売却した。川の対岸にレイク兄弟が製材所を開設した。マカーティ兄弟は東岸に住み、自分達の製材所を運営した[3]。当初オーロラは2つの村落であり、1つはフォックス川の東岸にあった。1837年に郵便局が作られ、公式にオーロラが生まれた。1857年、東岸にあったオーロラが西岸のものと合併して公式に市制が布かれた[4]。1856年にオーロラ消防局が設立され、その年初の消防車を所有した。川の両岸にあった地域社会はどちらの側に公共の建物を置くべきか合意できなかったので、その大半は川の中にあるストルプ島とその周辺に建設された(当初の市役所と郵便局があった場所は現在駐車場になっている)。

オーロラ市が成長するにつれて、多くの工場や仕事ができて人口が増えた。1856年、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道がオーロラに客車製造修繕工場を建て、1960年代まで町では最大の雇用主になった。東岸に多くの重工業が進出し、ヨーロッパからの移民を多世代にわたって雇用することになった。主にイギリス、アイルランド、スカンディナビア、ルクセンブルグ、ドイツ、フランスおよびイタリアからの移 民が多かった。特にアメリカ合衆国の北部からは専門職や管理職の移住者が到着して対岸に住み着き、西岸は裕福な地区になった。オーロラはフォックス川流域経済での中心になった。高度に工業化されたことと町を大きな川が分けていること、および鉄道の工場があること、これら3つの要素が組み合わされて、オーロラの政治、経済、および社会史を活力有るものにしてきた。川の両岸にある地区はライバル関係を持続し、それが毎年の高校のフットボールやバスケットボールの試合に引き継がれている。これはイリノイ州の中でも最古のライバル高校となっている[4]

オーロラ市はその勃興期から様々な国からの移民を受け容れ、寛容であり、歓迎しており、また南北戦争の前は公然と奴隷制度廃止運動を支持した。1910年以降はメキシコからの移民が来るようになった。社会的には教育、宗教、福祉および女性に対する態度で革新的だった。イリノイ州で最初の無料公共教育学区が1851年に作られ、4年後には女子高校もできた。1887年までに、9つの宗派を代表する20の教区(2つのアフリカ系アメリカ人教会を含む)が設立され、1893年に出発したYWCAは今日でも運営を続けている[3]

オーロラ市は1974年まで製造業の中心だったが、この年に鉄道の工場が閉鎖された。間もなく他の多くの工場や工業地域も他所に移るか事業を止めた。1980年までに市内の工業地域で操業している企業はほとんど無くなり、失業率は16%にも上った[3]。ウェストフィールド・フォックス・バレーのある最東部の発展が刺激になったが、ストルプ島の中心街は衰退することになった。犯罪率が上がり、1980年代半ばには不良グループが形成され始めた。1980年代には多くのヒスパニック系移民も多く町に入って来始めた。1980年代後半、市の郊外に幾つかの事業と産業の団地が設立された。1993年、中心街にカジノが作られ、最近20年間で最初の中心街再開発が始まった。1990年代後半、オーロラ市郊外の田園部で開発が始まった。市の外郭、特にデュページ郡で分譲地が出現し、オーロラ市の人口が急増した。今日、市内人口のうち約7万人はこれら外郭部に住んでいる。

地理

フィリップス公園の「サンクン・ガーデン」

オーロラは北緯41度45分48秒 西経88度17分24秒 / 北緯41.76333度 西経88.29度 / 41.76333; -88.29に位置する。アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、市域全面積は39.42平方マイル (102.1 km2)、このうち陸地は38.53平方マイル (99.8 km2)、水面は0.89平方マイル (2.3 km2)で水域率は2.26%である。

2012年5月1日火曜日

プリマス植民地 - Wikipedia


プリマス植民地(プリマスしょくみんち、英: Plymouth Colony, New Plymouth, The Old Colony)は、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地の魁けである。最初の入植地は、ジョン・スミス船長によって前もって探査され名付けられていたニュープリマスだった。この入植地は植民地の首都となり、現在はマサチューセッツ州プリマスとなっている。その最盛期には現在のマサチューセッツ州南東部の大半を領有していた。

プリマス植民地は、後にピルグリム・ファーザーズとして知られるようになる宗教的分離派によって設立され、バージニア植民地のジェームズタウンと共に、イギリスが設立した北アメリカにおける最も初期の植民地であり、ニューイングランド地域では最初の相当な大きさのある恒久的入植地となった。インディアンのスクァント酋長の助けを得て、植民地の成功を請け合ってくれたマサソイト酋長と条約を結ぶことができた。プリマス植民地は、インディアン戦争の戦いの中でも最も初期で血腥いものとなったフィリップ王戦争では中心的な役割を果たした。最終的にプリマス植民地はマサチューセッツ湾植民地と合併した。

プリマス植民地はアメリカの歴史の中で特別の役割を果たした。プリマスの市民は、ジェームズタウンの多くの入植者の様に起業家であるよりも、宗教的迫害を逃れ、神を崇めるために適した場所を探したものだった。植民地の社会的また法的体系は市民の信仰に密接に結びついたものだった。プリマス植民地の多くの人々と、またそれを取り巻く出来事はアメリカの神話となり、感謝祭という北アメリカの伝統となった事柄やプリマス・ロックという記念碑を生んだ。プリマス植民地は比較的短期間で消滅したものの、今日でも「アメリカン」と言われるものの重要な象徴になってきた。

[編集] 発端

プリマス植民地は、後にピルグリムとして知られるようになった一群の人々によって創設された。その集団の中核は成人の40%、家族集団の56%であり[1]、ジョン・ロビンソン牧師、ウィリアム・ブリュースター司祭、およびウィリアム・ブラッドフォードが先導した宗教的分離派信徒の一部だった。イングランドのノッティンガムシャー州スクルービーの町にいる時に、信徒達は宗教的迫害の圧力を感じるようになった。1604年のハンプトンコート会議で、イングランド王ジェームズ1世はピューリタンとプロテスタント分離派を望ましくないものと宣言し、1607年、ヨーク大司教は幾人かの信徒の家を襲って牢獄に収監した。[2][3]このために信徒達は1609年にイングランドを離れ、オランダに移動して、最初はアムステルダムに、後にライデンに住み着いた。[4]

ライデンで信徒達はその選んだままに信仰する自由を味わったが、オランダの社会はこれら移民達には馴染めないものだった。スクルービーの町は農業に基づく地域社会であり、ライデンは産業の盛んな中心地であって、生活の速度がピルグリムには随いて行けないものだった。さらに信徒の社会は結び付きの強いままだったが、子供達はオランダの習慣と言語に慣れ始めた。ピルグリムは、この時もイギリス王室からの迫害と無縁では無かった。1618年にウィリアム・ブリュースターがイングランド王とイングランド国教会を強く批判する文書を出版すると、イギリス当局はブリュースターを逮捕するためにライデンにやってきた。ブリュースターは逮捕を免れたが、この出来事は信徒達にイングランドからはもっと離れた所に移動しな ければならないという動機を与えた。[5]

1619年6月、ピルグリムは、ニューネーデルラントのケープコッド南部に入植する機会をオランダの影響力を避けたいと思ったために辞退した後[6]、ロンドン・バージニア会社からハドソン川河口に入植する許可を与える土地特許を得た。次に、植民地建設がその宗教を広め利益にも繋がる手段と考えるピューリタン実業家の集団であるマーチャント・アドベンチャラーズを通じて、移民のための資金を集めた。アメリカに到着したときに、ピルグリムはその負債を支払うために働き始めた[7]

マーチャント・アドベンチャラーズからの資金を元に、ピルグリムは食料を購入し、2隻の船メイフラワー号とスピードウェル号の運賃を支払った。1620年早々に出発するつもりだったが、航海計画の変更や資金面の問題を含め、マーチャント・アドベンチャラーズとの間に片付けなければならないことが出てきたために、数ヶ月遅れることになった。ピルグリムがオランダのデルフスハーフェン港からスピードウェル号で出発したのは1620年7月だった。[8]

[編集] メイフラワー号の航海

メイフラワー号はスピードウェル号と落ち合うためにイングランドのサウサンプトンに寄港し、物資や他の乗船客を乗せた。サウサンプトンで一行に加わった乗船客の中には、一年の大半を隠れて過ごしていたウィリアム・ブリュースターを含む数人のピルグリムと、ピルグリムにとっては「異邦人」と見られる一群の者達がいた。この後者の集団の大半はマーチャント・アドベンチャラーズの募集に応じた者であり植民地の統治を行うと共に、植民地を立ち上げるための付加的な働き手という位置付けだった。異邦人の中には植民地の軍事的指導者となるマイルス・スタンディッシュ、大西洋航海中の指揮者となるべくマーチャント・アドベンチャラーズに指名されていたクリストファー・マーチン、およびウィリアム・シ� �イクスピアの「テンペスト」のモデルにもなったと言われ、植民地経営に失敗した経験のあるステファン・ホプキンスがいた。[9]

メイフラワー号とスピードウェル号のアメリカへの出発は更に遅れた。マーチャント・アドベンチャラーズとの考えの不一致でサウサンプトンでしばらく留まった。総人数120名の乗客は、メイフラワー号に90名、スピードウェル号に30名が分乗し、8月15日にやっと出航した。[10]いざ、サウサンプトンを出港したものの、スピードウェル号に重大な水漏れが発生し、即座にダートマスに帰港する必要が生じた。修理が完了しても、今度は追い風を得られずにさらに遅れた。2隻の船はランズ・エンド岬を過ぎて200マイルも行かないうちに、またスピードウェル号に水漏れが発生して、イングランドへ後戻りを余儀なくされた。今回はプリマス港だった。スピードウェル号は航海に耐えられないと判断され、移民を諦めた者もいたが、残りはメイフラワー号に乗り移り、既に積載量の多かった船がさらに混雑することになった。後に、スピードウェル号の船長が当てにならない大西洋を越える航海を避けるために意図的に罷業したのだという風評が広まった。[11]

メイフラワー号は102人の移民を乗せて、1620年9月6日にプリマスを出港した。僚船のスピードウェル号は無く、具体的にハドソン川河口に移住することを認める土地特許を持って新世界へ船出した。途中で強い西風に会いまたメキシコ湾流のせいもあって、航海は2ヶ月を要した。11月9日、ケープコッドの海岸沖で陸地を発見した。メイフラワー号は指定されたハドソン川河口の場所に上陸するために南に向かおうとしたが、ケープコッドとナンタケット島の間の浅瀬、ポーラックリップ海域で障害が起こった。冬に向かおうとしている時期であり、食料も危険なまでに底を突いた状況だったので、乗船客は北へ戻り、当初の上陸計画を棄てることにした。[12]

[編集] 白人の探検と入植

ピルグリムはその地域で初めての人間ではなかった。その地域固有のインディアン以外にも、ヨーロッパ白人による1世紀近い探検、漁労および入植の歴史があった。ジョン・カボットが1497年にニューファンドランド島を発見し、イギリスは北アメリカの東海岸に広大な領有権を主張することになった[13]。ニューイングランドの初期の地図の一つは、1540年頃、地図製作者ジャコモ・ガスタルディによるものだったが、ケープブレトン島をナラガンセット湾と見誤っていた。この誤りでニューイングランドの海岸の大半が消えていた[14]。ヨーロッパの漁師は16世紀から17世紀の大半をニューイングランド海岸沖で操業していた。

フランス人サミュエル・ド・シャンプランは1605年にこの地域を探検した。特にプリマス港を探索して「セントルイス港」と名付け、そこと周辺の土地の広範で詳細な地図を作成した。プリマスの町が間もなく造られることになるインディアンの集落、「パチュケット」が将来白人にとっては「楽しみな入植地」としてシャンプランの地図に載った。しかし、メイフラワー号が到着する15年前に、イギリス人漁師によってこの地域にもたらされた病気が、この地域のインディアンの90%を絶滅させていた。この病気は天然痘だと一般に考えられていたが[15]、最近の研究に拠るとあまり知られていないレプトスピラ症だった可能性があると結論付けられた [16]。ピルグリムが入植したことに対してインディアンからの抵抗がほとんど無かったことは、その植民地とイギリスによるアメリカ大陸の植民地化そのものを成功に導いた重要な要因になった可能性がある。

ポパム植民地、別名セントジョージ砦はプリマス会社(プリマス植民地と関係は無い)によって組織され1607年に開設されていた。現在のメイン州の海岸に造られたこの植民地は、内部の政治的な闘争や、病気と厳しい気候によって悩まされ続けていた。この植民地は1608年に放棄された[17]

ジェームズタウンで名を上げたジョン・スミス船長は、プリマス植民地近くを1614年に探検し、ニューイングランドという名前を付けたとされている。スミスはインディアンたちの言葉を聞き書きして、多くの地名を付けた。ピルグリムが最初に入植する場所は、スミスによって当初アッコマックと呼ばれた。イングランド王ジェームズ1世の息子、当時皇太子だったチャールズ1世と相談して、スミスはアッコマックをニュープリマスと変えた。1616年にスミスが出版した地図「ニューイングランドの記述」(A Description of New England)では「ニュープリマス」(New Plimouth、綴りが1文字異なる)と書かれている[18]

メイフラワー号の入植者が最初にケープコッドを探検したとき、白人が以前にそこで多くの時を過ごした証拠に出くわした。白人の砦の跡を発見し、墓を暴くと白人成人男性とインディアンの子供の遺骨があった。[19]

[編集] プロビンスタウンとプリマスへの上陸

メイフラワー号は、1620年11月11日にプロビンスタウン港に碇を降ろした。ピルグリムはその地域に入植する特許を得ていなかったので、乗船客達は上陸する権利を疑い始めた。そこには植民地を創設する法的な根拠が無いとこぼした。これに応えて、まだ海上にある船に留まっていた一団の移民が植民地を統治する為の最初の文書「メイフラワー誓約」(盟約書)を起草し批准した。この意図は植民地を統治する手段を確立することだった。それは植民地がイギリスの町のように統治されることを確認したに過ぎなかったが、多くの移民の心配を解き放つ目的には役だった。[20]

この一団は次の日が日曜日だったので、船上に留まり祈りを捧げた。11月13日、移民達は後にプロビンスタウンと呼ばれる地に最初の一歩を踏み出した。最初の仕事はシャロップと呼ばれる底の浅い小舟を組み立てることだった。この船はイギリスで造られ、メイフラワー号で運ぶために分解されていた。メイフラワー号がイングランドに戻った後に、小舟とピルグリムが残ることになっていた。11月15日、マイルス・スタンディッシュ船長は16名の部隊を構成して探検を行い、その途中でインディアンの墓を暴き、またインディアン・コーンの埋蔵所を探し当てた。翌週スザンナ・ホワイトがメイフラワー号船上で男の子、ペレグリン・ホワイトを産んだ。この子は新世界でペリグリムの子として生まれた最初のイギリス人 になった。シャロップは11月27日に完成し、これを使って2回目の探検がメイフラワー号船長のクリストファー・ジョーンズの指揮で行われた。34名が同行したが、この遠征は悪天候に悩まされた。将来の展望から考えて唯一評価できる結果は、インディアンの墓所を発見して暴き、死者のために埋蔵されていたコーンを見付けて持ち帰ったことだった。ケープコッドの3回目の探検は12月6日に出発した。このときに、現在のイーサム近くで「最初の遭遇」として知られる土地のインディアンとちょっとした衝突があった。ピルグリムは適当な入植地の確保が難しかったことと、インディアンのコーンを盗んだ上に武器を向けて怒らせてしまったことを恐れ、メイフラワー号でプロビンスタウンを離れ、プリマス港に向かった。[21]

移民達は12月17日にプリマス港に碇を降ろし、入植地を探して3日間を費やした。幾つかの場所には駄目出しをした。クラークス島やジョーンズ川の河口の地だった。その後にインディアンが最近放棄していたパチュケットという名の場所を選んだ。この場所は防御に適していることが選ばれた大きな理由だった。入植地は2つの丘を中心にした。コールズヒルは集落が造られ、フォートヒルは防衛のための大砲が据えられることになった。この場所を選んだもう一つの重要な理由は、以前のインディアンの村人が土地の大半を切り開いており、農作が比較的容易だったからである。清水はタウン・ブルックとビリントン湖から得られた。その伝説を実証する証拠は全くないものの、プリマス・ロックは入植者達がその新しい故郷に最初に足� ��踏み入れた場所だとされている。[22][23]

入植者達が入った地域は1614年に出版されたジョン・スミスの地図では、「ニュープリマス」と記されている。入植者達はイングランドを離れるときの港町デボン州のプリマスに因み、その地図に記された町の名をそのまま採用することにした。

[編集] 最初の冬

12月21日、最初の上陸隊がプリマス入植地となる場所に到着した。しかし、直ぐに家を建てようという計画は荒れ模様の天候のために12月23日まで延期された。建設が開始されると、常に20名の男が陸上に残って安全を確保し、その他の働き手達は1日の終わりにメイフラワー号に戻った。女性と子供それに体の虚弱な者は船上に残った。多くの者が6ヶ月間船を離れられなかった。最初の建物は「共有建屋」で、編み枝と泥でつくった漆喰でできていた。ニューイングランドの厳しい冬の最中に、完成までに2週間を要した。その次の数週間で入植地の残りが少しずつ姿を現した。住居と作業所はコールズヒルの比較的平らな頂上部に造られ、隣接するフォートヒルには入植地を守ることになる大砲を支えるために木製のプラットフォー� �が造られた。身体的に健全な男達の多くが衰弱して働けなくなり、病気で死ぬ者もあった。19戸を計画していた住居の中7戸と共有建屋4戸が、最初の冬の間に完成した。[24]

新世界における最初の冬の間に、メイフラワー号に乗船してきた者の大半が壊血病のような病気を患い、雨風を凌ぐ場所が無く、船の上で不自由を強いられた。102名いた乗客のうち45名が最初の冬の間に死に、コールズヒルに埋葬された。最初の一年間、すなわち1621年11月まで生き延びて感謝祭を迎えたのは53人だった。18人いた成人女性のうち、13人が最初の冬の間に死に、5月にももう一人死んだので、感謝祭を迎えられたのは4人に過ぎなかった。

[1月の終わりまでに、定着に必要な建屋が建てられたので、メイフラワー号から食料の荷卸しが始まった。2月半ば、土地のインディアンと数回の緊張した遭遇があった後で、入植地の男性住人が軍隊組織を作った。マイルス・スタンディッシュが指揮官に指名された。2月の終わりに、5門の大砲がフォートヒルの防衛拠点に据えられた。[25]ジョン・カーバーが航海中の指導者に指名されていたマーチンに代わって初代の知事に選ばれた[26]

1621年3月16日、インディアンとの最初の公式な接触が起こった。現在のメイン州ペマクィドポイント出身のサモセットという名のインディアンが大胆に入植地の中に歩いて来て、「ようこそ、イギリス人」("Welcome, Englishmen!" )と叫んだ。サモセットはヨーロッパ人から奴隷にされてヨーロッパに送られ、数年してメインに逃げ戻ってきていたので、幾らかの英語を覚えていた。インディアン集落パチュケットの前の住人が恐らく天然痘で死んだことを、ピルグリムが知ったのもこの会見の時である。彼らはこの地域の「最高指導者」がワンパノアグ族の酋長マサソイトであると想い違いした。

マサソイト酋長はワンパノアグ族インディアンの一支族ポコナケット族の酋長だったが、白人は彼を「ワンパノアグ族連合全体の創設者で指導者」と見なした[27]。しかし、インディアンの酋長は合議制のなかの「調停者」、「世話役」であり、「指導者」でも「権力者」でもない[28]。しかし白人たちは「酋長」を「首長」と誤認してしまい、以後のインディアン部族との交渉で、酋長の同意を部族の同意と思い込んだ。合議を経ていない白人の要求は当然インディアン社会から反発を受け、「インディアン戦争」という血みどろの植民地戦争を生みだしていった。

白人たちはパチュケットの出身で、マサチューセッツ族名「ティスクァンタム」として知られるスクァントの存在も知った。スクァントはヨーロッパに滞在したことがあり、英語を流暢に話した。サモセットはその夜をプリマスで過ごし、マサソイトの部族員との会合を手配する約束をした。[29]

マサソイトとスクァントはピルグリムのことを気遣っていた。マサソイトが初めてイギリス人に会った時、部族の数人の男がイギリス水夫の謂われのない攻撃で殺されていた。ピルグリムがプロビンスタウンに上陸したときにコーンの埋蔵品を盗んだことも知っていた。[30]スクァントは1614年にイギリスの探検家トマス・ハントに連れ去られ、最初はスペイン人僧侶団の奴隷として、続いてイングランドに渡って、ヨーロッパで5年間を過ごしてきていた。1619年、探検家フェルディナンド・ゴルジュの案内人としてニューイングランドに戻ってきたが、マサソイトとその部族員が船の乗組員を皆殺しにしてスクァントを取り戻した。[31][32]

サモセットは、3月22日にスクァントを含むマサソイトの代理人らと共にプリマスに戻ってきた。マサソイト自身もその後間もなく加わった。贈り物の交換後にマサソイトとマーチン知事は正式な和平条約を結んだ。この条約では、お互いに相手に害を及ぼすようなことをしないこと、マサソイトはその同盟者がプリマスと平和的な交渉を行うように使者を送ること、戦争が起こった場合は互いに協力して戦うことが盛り込まれていた[33]

マサソイト酋長は部族の調停者として、この調停に加わっている。しかし上述したように、インディアンの酋長は「指導者」ではないので、部族員にこれに反発する者がいたとしても彼にこれを制限する権限は無い。

4月5日、プリマス港にほぼ4ヶ月停泊したままだったメイフラワー号がイングランドに向かって船出した[34]。最初の冬で102人の乗客のうち、半数近くが死んでいた[35]。ウィリアム・ブラッドフォードは「この最初の船で共にやってきた100人の中で、ほぼ半数が死を免れなかった。彼らの多くは2,3ヶ月のうちに死んだ。」と書き記した[36]コールズヒルの墓の幾つかが1855年に掘り出された。その遺骸はプリマス・ロックの近くに移葬された。[37]

[編集] 最初の感謝祭

1621年遅くの秋の祭りは、後に「最初の感謝祭」として知られるようになったが、ピルグリムにとっては知るよしもないものだった。ピルグリムは感謝祭として知られる祭りは認識していたが、それは信徒の幸運のために、神を崇め感謝する敬虔な儀式だった。ピルグリムが感謝祭と呼んだ最初のものは1623年に行われたものだった。この時、新たな移民と物資が到着するという知らせが届いたことに反応したものだった。この出来事は恐らく7月に起こり、まる一日の祈りと礼拝、およびささやかな祝宴が行われた。[38]

アメリカ合衆国ではこの出来事を記念して毎年11月末に、より適切な言葉「収穫祭」として祝われている。最初のお祭りは恐らく1621年10月早くに開催され、生き残ったピルグリム51名とマサソイトの一党90名と共に祝われた。この催しに関する3つの当時の資料が残っている。ウィリアム・ブラッドフォードによる「プリマス・プランテーションについて」(Of Plimoth Plantation)、エドワード・ウィンスローによる「モートの関係」(Mourt's Relation])、および植民地の書記官でブラッドフォードの甥だったナサニエル・モートンによる「ニューイングランドの記憶」(New England's Memorial)である。お祭りは3日間続き、入植者が購った多くの種類の水鳥、野生の七面鳥および魚と、インディアンが気前よく与えた5頭の鹿が饗宴に供された[39]

[編集] インディアンとの初期の関係

マサソイトとその一党が去ると、スクァントはプリマスに残って、ニューイングランドで生き残る方法をピルグリムに教えた。例えば死んだ魚を使って大地に肥料を与えることである。メイフラワー号が去って間もなく、カーバー知事が突然亡くなった。ウィリアム・ブラッドフォードがその後継者に選ばれ、植民地の成長期の多くの期間を引っ張っていくことになった。[40]