プリマス植民地(プリマスしょくみんち、英: Plymouth Colony, New Plymouth, The Old Colony)は、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地の魁けである。最初の入植地は、ジョン・スミス船長によって前もって探査され名付けられていたニュープリマスだった。この入植地は植民地の首都となり、現在はマサチューセッツ州プリマスとなっている。その最盛期には現在のマサチューセッツ州南東部の大半を領有していた。
プリマス植民地は、後にピルグリム・ファーザーズとして知られるようになる宗教的分離派によって設立され、バージニア植民地のジェームズタウンと共に、イギリスが設立した北アメリカにおける最も初期の植民地であり、ニューイングランド地域では最初の相当な大きさのある恒久的入植地となった。インディアンのスクァント酋長の助けを得て、植民地の成功を請け合ってくれたマサソイト酋長と条約を結ぶことができた。プリマス植民地は、インディアン戦争の戦いの中でも最も初期で血腥いものとなったフィリップ王戦争では中心的な役割を果たした。最終的にプリマス植民地はマサチューセッツ湾植民地と合併した。
プリマス植民地はアメリカの歴史の中で特別の役割を果たした。プリマスの市民は、ジェームズタウンの多くの入植者の様に起業家であるよりも、宗教的迫害を逃れ、神を崇めるために適した場所を探したものだった。植民地の社会的また法的体系は市民の信仰に密接に結びついたものだった。プリマス植民地の多くの人々と、またそれを取り巻く出来事はアメリカの神話となり、感謝祭という北アメリカの伝統となった事柄やプリマス・ロックという記念碑を生んだ。プリマス植民地は比較的短期間で消滅したものの、今日でも「アメリカン」と言われるものの重要な象徴になってきた。
[編集] 発端
「ピルグリム・ファーザーズ」も参照
プリマス植民地は、後にピルグリムとして知られるようになった一群の人々によって創設された。その集団の中核は成人の40%、家族集団の56%であり[1]、ジョン・ロビンソン牧師、ウィリアム・ブリュースター司祭、およびウィリアム・ブラッドフォードが先導した宗教的分離派信徒の一部だった。イングランドのノッティンガムシャー州スクルービーの町にいる時に、信徒達は宗教的迫害の圧力を感じるようになった。1604年のハンプトンコート会議で、イングランド王ジェームズ1世はピューリタンとプロテスタント分離派を望ましくないものと宣言し、1607年、ヨーク大司教は幾人かの信徒の家を襲って牢獄に収監した。[2][3]このために信徒達は1609年にイングランドを離れ、オランダに移動して、最初はアムステルダムに、後にライデンに住み着いた。[4]
ライデンで信徒達はその選んだままに信仰する自由を味わったが、オランダの社会はこれら移民達には馴染めないものだった。スクルービーの町は農業に基づく地域社会であり、ライデンは産業の盛んな中心地であって、生活の速度がピルグリムには随いて行けないものだった。さらに信徒の社会は結び付きの強いままだったが、子供達はオランダの習慣と言語に慣れ始めた。ピルグリムは、この時もイギリス王室からの迫害と無縁では無かった。1618年にウィリアム・ブリュースターがイングランド王とイングランド国教会を強く批判する文書を出版すると、イギリス当局はブリュースターを逮捕するためにライデンにやってきた。ブリュースターは逮捕を免れたが、この出来事は信徒達にイングランドからはもっと離れた所に移動しな ければならないという動機を与えた。[5]
1619年6月、ピルグリムは、ニューネーデルラントのケープコッド南部に入植する機会をオランダの影響力を避けたいと思ったために辞退した後[6]、ロンドン・バージニア会社からハドソン川河口に入植する許可を与える土地特許を得た。次に、植民地建設がその宗教を広め利益にも繋がる手段と考えるピューリタン実業家の集団であるマーチャント・アドベンチャラーズを通じて、移民のための資金を集めた。アメリカに到着したときに、ピルグリムはその負債を支払うために働き始めた[7]
マーチャント・アドベンチャラーズからの資金を元に、ピルグリムは食料を購入し、2隻の船メイフラワー号とスピードウェル号の運賃を支払った。1620年早々に出発するつもりだったが、航海計画の変更や資金面の問題を含め、マーチャント・アドベンチャラーズとの間に片付けなければならないことが出てきたために、数ヶ月遅れることになった。ピルグリムがオランダのデルフスハーフェン港からスピードウェル号で出発したのは1620年7月だった。[8]
[編集] メイフラワー号の航海
メイフラワー号はスピードウェル号と落ち合うためにイングランドのサウサンプトンに寄港し、物資や他の乗船客を乗せた。サウサンプトンで一行に加わった乗船客の中には、一年の大半を隠れて過ごしていたウィリアム・ブリュースターを含む数人のピルグリムと、ピルグリムにとっては「異邦人」と見られる一群の者達がいた。この後者の集団の大半はマーチャント・アドベンチャラーズの募集に応じた者であり植民地の統治を行うと共に、植民地を立ち上げるための付加的な働き手という位置付けだった。異邦人の中には植民地の軍事的指導者となるマイルス・スタンディッシュ、大西洋航海中の指揮者となるべくマーチャント・アドベンチャラーズに指名されていたクリストファー・マーチン、およびウィリアム・シ� �イクスピアの「テンペスト」のモデルにもなったと言われ、植民地経営に失敗した経験のあるステファン・ホプキンスがいた。[9]
メイフラワー号とスピードウェル号のアメリカへの出発は更に遅れた。マーチャント・アドベンチャラーズとの考えの不一致でサウサンプトンでしばらく留まった。総人数120名の乗客は、メイフラワー号に90名、スピードウェル号に30名が分乗し、8月15日にやっと出航した。[10]いざ、サウサンプトンを出港したものの、スピードウェル号に重大な水漏れが発生し、即座にダートマスに帰港する必要が生じた。修理が完了しても、今度は追い風を得られずにさらに遅れた。2隻の船はランズ・エンド岬を過ぎて200マイルも行かないうちに、またスピードウェル号に水漏れが発生して、イングランドへ後戻りを余儀なくされた。今回はプリマス港だった。スピードウェル号は航海に耐えられないと判断され、移民を諦めた者もいたが、残りはメイフラワー号に乗り移り、既に積載量の多かった船がさらに混雑することになった。後に、スピードウェル号の船長が当てにならない大西洋を越える航海を避けるために意図的に罷業したのだという風評が広まった。[11]
メイフラワー号は102人の移民を乗せて、1620年9月6日にプリマスを出港した。僚船のスピードウェル号は無く、具体的にハドソン川河口に移住することを認める土地特許を持って新世界へ船出した。途中で強い西風に会いまたメキシコ湾流のせいもあって、航海は2ヶ月を要した。11月9日、ケープコッドの海岸沖で陸地を発見した。メイフラワー号は指定されたハドソン川河口の場所に上陸するために南に向かおうとしたが、ケープコッドとナンタケット島の間の浅瀬、ポーラックリップ海域で障害が起こった。冬に向かおうとしている時期であり、食料も危険なまでに底を突いた状況だったので、乗船客は北へ戻り、当初の上陸計画を棄てることにした。[12]
[編集] 白人の探検と入植
ピルグリムはその地域で初めての人間ではなかった。その地域固有のインディアン以外にも、ヨーロッパ白人による1世紀近い探検、漁労および入植の歴史があった。ジョン・カボットが1497年にニューファンドランド島を発見し、イギリスは北アメリカの東海岸に広大な領有権を主張することになった[13]。ニューイングランドの初期の地図の一つは、1540年頃、地図製作者ジャコモ・ガスタルディによるものだったが、ケープブレトン島をナラガンセット湾と見誤っていた。この誤りでニューイングランドの海岸の大半が消えていた[14]。ヨーロッパの漁師は16世紀から17世紀の大半をニューイングランド海岸沖で操業していた。
フランス人サミュエル・ド・シャンプランは1605年にこの地域を探検した。特にプリマス港を探索して「セントルイス港」と名付け、そこと周辺の土地の広範で詳細な地図を作成した。プリマスの町が間もなく造られることになるインディアンの集落、「パチュケット」が将来白人にとっては「楽しみな入植地」としてシャンプランの地図に載った。しかし、メイフラワー号が到着する15年前に、イギリス人漁師によってこの地域にもたらされた病気が、この地域のインディアンの90%を絶滅させていた。この病気は天然痘だと一般に考えられていたが[15]、最近の研究に拠るとあまり知られていないレプトスピラ症だった可能性があると結論付けられた [16]。ピルグリムが入植したことに対してインディアンからの抵抗がほとんど無かったことは、その植民地とイギリスによるアメリカ大陸の植民地化そのものを成功に導いた重要な要因になった可能性がある。
ポパム植民地、別名セントジョージ砦はプリマス会社(プリマス植民地と関係は無い)によって組織され1607年に開設されていた。現在のメイン州の海岸に造られたこの植民地は、内部の政治的な闘争や、病気と厳しい気候によって悩まされ続けていた。この植民地は1608年に放棄された[17]。
ジェームズタウンで名を上げたジョン・スミス船長は、プリマス植民地近くを1614年に探検し、ニューイングランドという名前を付けたとされている。スミスはインディアンたちの言葉を聞き書きして、多くの地名を付けた。ピルグリムが最初に入植する場所は、スミスによって当初アッコマックと呼ばれた。イングランド王ジェームズ1世の息子、当時皇太子だったチャールズ1世と相談して、スミスはアッコマックをニュープリマスと変えた。1616年にスミスが出版した地図「ニューイングランドの記述」(A Description of New England)では「ニュープリマス」(New Plimouth、綴りが1文字異なる)と書かれている[18]。
メイフラワー号の入植者が最初にケープコッドを探検したとき、白人が以前にそこで多くの時を過ごした証拠に出くわした。白人の砦の跡を発見し、墓を暴くと白人成人男性とインディアンの子供の遺骨があった。[19]
[編集] プロビンスタウンとプリマスへの上陸
メイフラワー号は、1620年11月11日にプロビンスタウン港に碇を降ろした。ピルグリムはその地域に入植する特許を得ていなかったので、乗船客達は上陸する権利を疑い始めた。そこには植民地を創設する法的な根拠が無いとこぼした。これに応えて、まだ海上にある船に留まっていた一団の移民が植民地を統治する為の最初の文書「メイフラワー誓約」(盟約書)を起草し批准した。この意図は植民地を統治する手段を確立することだった。それは植民地がイギリスの町のように統治されることを確認したに過ぎなかったが、多くの移民の心配を解き放つ目的には役だった。[20]
この一団は次の日が日曜日だったので、船上に留まり祈りを捧げた。11月13日、移民達は後にプロビンスタウンと呼ばれる地に最初の一歩を踏み出した。最初の仕事はシャロップと呼ばれる底の浅い小舟を組み立てることだった。この船はイギリスで造られ、メイフラワー号で運ぶために分解されていた。メイフラワー号がイングランドに戻った後に、小舟とピルグリムが残ることになっていた。11月15日、マイルス・スタンディッシュ船長は16名の部隊を構成して探検を行い、その途中でインディアンの墓を暴き、またインディアン・コーンの埋蔵所を探し当てた。翌週スザンナ・ホワイトがメイフラワー号船上で男の子、ペレグリン・ホワイトを産んだ。この子は新世界でペリグリムの子として生まれた最初のイギリス人 になった。シャロップは11月27日に完成し、これを使って2回目の探検がメイフラワー号船長のクリストファー・ジョーンズの指揮で行われた。34名が同行したが、この遠征は悪天候に悩まされた。将来の展望から考えて唯一評価できる結果は、インディアンの墓所を発見して暴き、死者のために埋蔵されていたコーンを見付けて持ち帰ったことだった。ケープコッドの3回目の探検は12月6日に出発した。このときに、現在のイーサム近くで「最初の遭遇」として知られる土地のインディアンとちょっとした衝突があった。ピルグリムは適当な入植地の確保が難しかったことと、インディアンのコーンを盗んだ上に武器を向けて怒らせてしまったことを恐れ、メイフラワー号でプロビンスタウンを離れ、プリマス港に向かった。[21]
移民達は12月17日にプリマス港に碇を降ろし、入植地を探して3日間を費やした。幾つかの場所には駄目出しをした。クラークス島やジョーンズ川の河口の地だった。その後にインディアンが最近放棄していたパチュケットという名の場所を選んだ。この場所は防御に適していることが選ばれた大きな理由だった。入植地は2つの丘を中心にした。コールズヒルは集落が造られ、フォートヒルは防衛のための大砲が据えられることになった。この場所を選んだもう一つの重要な理由は、以前のインディアンの村人が土地の大半を切り開いており、農作が比較的容易だったからである。清水はタウン・ブルックとビリントン湖から得られた。その伝説を実証する証拠は全くないものの、プリマス・ロックは入植者達がその新しい故郷に最初に足� ��踏み入れた場所だとされている。[22][23]
入植者達が入った地域は1614年に出版されたジョン・スミスの地図では、「ニュープリマス」と記されている。入植者達はイングランドを離れるときの港町デボン州のプリマスに因み、その地図に記された町の名をそのまま採用することにした。
[編集] 最初の冬
12月21日、最初の上陸隊がプリマス入植地となる場所に到着した。しかし、直ぐに家を建てようという計画は荒れ模様の天候のために12月23日まで延期された。建設が開始されると、常に20名の男が陸上に残って安全を確保し、その他の働き手達は1日の終わりにメイフラワー号に戻った。女性と子供それに体の虚弱な者は船上に残った。多くの者が6ヶ月間船を離れられなかった。最初の建物は「共有建屋」で、編み枝と泥でつくった漆喰でできていた。ニューイングランドの厳しい冬の最中に、完成までに2週間を要した。その次の数週間で入植地の残りが少しずつ姿を現した。住居と作業所はコールズヒルの比較的平らな頂上部に造られ、隣接するフォートヒルには入植地を守ることになる大砲を支えるために木製のプラットフォー� �が造られた。身体的に健全な男達の多くが衰弱して働けなくなり、病気で死ぬ者もあった。19戸を計画していた住居の中7戸と共有建屋4戸が、最初の冬の間に完成した。[24]
新世界における最初の冬の間に、メイフラワー号に乗船してきた者の大半が壊血病のような病気を患い、雨風を凌ぐ場所が無く、船の上で不自由を強いられた。102名いた乗客のうち45名が最初の冬の間に死に、コールズヒルに埋葬された。最初の一年間、すなわち1621年11月まで生き延びて感謝祭を迎えたのは53人だった。18人いた成人女性のうち、13人が最初の冬の間に死に、5月にももう一人死んだので、感謝祭を迎えられたのは4人に過ぎなかった。
[1月の終わりまでに、定着に必要な建屋が建てられたので、メイフラワー号から食料の荷卸しが始まった。2月半ば、土地のインディアンと数回の緊張した遭遇があった後で、入植地の男性住人が軍隊組織を作った。マイルス・スタンディッシュが指揮官に指名された。2月の終わりに、5門の大砲がフォートヒルの防衛拠点に据えられた。[25]ジョン・カーバーが航海中の指導者に指名されていたマーチンに代わって初代の知事に選ばれた[26]。
1621年3月16日、インディアンとの最初の公式な接触が起こった。現在のメイン州ペマクィドポイント出身のサモセットという名のインディアンが大胆に入植地の中に歩いて来て、「ようこそ、イギリス人」("Welcome, Englishmen!" )と叫んだ。サモセットはヨーロッパ人から奴隷にされてヨーロッパに送られ、数年してメインに逃げ戻ってきていたので、幾らかの英語を覚えていた。インディアン集落パチュケットの前の住人が恐らく天然痘で死んだことを、ピルグリムが知ったのもこの会見の時である。彼らはこの地域の「最高指導者」がワンパノアグ族の酋長マサソイトであると想い違いした。
マサソイト酋長はワンパノアグ族インディアンの一支族ポコナケット族の酋長だったが、白人は彼を「ワンパノアグ族連合全体の創設者で指導者」と見なした[27]。しかし、インディアンの酋長は合議制のなかの「調停者」、「世話役」であり、「指導者」でも「権力者」でもない[28]。しかし白人たちは「酋長」を「首長」と誤認してしまい、以後のインディアン部族との交渉で、酋長の同意を部族の同意と思い込んだ。合議を経ていない白人の要求は当然インディアン社会から反発を受け、「インディアン戦争」という血みどろの植民地戦争を生みだしていった。
白人たちはパチュケットの出身で、マサチューセッツ族名「ティスクァンタム」として知られるスクァントの存在も知った。スクァントはヨーロッパに滞在したことがあり、英語を流暢に話した。サモセットはその夜をプリマスで過ごし、マサソイトの部族員との会合を手配する約束をした。[29]
マサソイトとスクァントはピルグリムのことを気遣っていた。マサソイトが初めてイギリス人に会った時、部族の数人の男がイギリス水夫の謂われのない攻撃で殺されていた。ピルグリムがプロビンスタウンに上陸したときにコーンの埋蔵品を盗んだことも知っていた。[30]スクァントは1614年にイギリスの探検家トマス・ハントに連れ去られ、最初はスペイン人僧侶団の奴隷として、続いてイングランドに渡って、ヨーロッパで5年間を過ごしてきていた。1619年、探検家フェルディナンド・ゴルジュの案内人としてニューイングランドに戻ってきたが、マサソイトとその部族員が船の乗組員を皆殺しにしてスクァントを取り戻した。[31][32]
サモセットは、3月22日にスクァントを含むマサソイトの代理人らと共にプリマスに戻ってきた。マサソイト自身もその後間もなく加わった。贈り物の交換後にマサソイトとマーチン知事は正式な和平条約を結んだ。この条約では、お互いに相手に害を及ぼすようなことをしないこと、マサソイトはその同盟者がプリマスと平和的な交渉を行うように使者を送ること、戦争が起こった場合は互いに協力して戦うことが盛り込まれていた[33]。
マサソイト酋長は部族の調停者として、この調停に加わっている。しかし上述したように、インディアンの酋長は「指導者」ではないので、部族員にこれに反発する者がいたとしても彼にこれを制限する権限は無い。
4月5日、プリマス港にほぼ4ヶ月停泊したままだったメイフラワー号がイングランドに向かって船出した[34]。最初の冬で102人の乗客のうち、半数近くが死んでいた[35]。ウィリアム・ブラッドフォードは「この最初の船で共にやってきた100人の中で、ほぼ半数が死を免れなかった。彼らの多くは2,3ヶ月のうちに死んだ。」と書き記した[36]コールズヒルの墓の幾つかが1855年に掘り出された。その遺骸はプリマス・ロックの近くに移葬された。[37]
[編集] 最初の感謝祭
1621年遅くの秋の祭りは、後に「最初の感謝祭」として知られるようになったが、ピルグリムにとっては知るよしもないものだった。ピルグリムは感謝祭として知られる祭りは認識していたが、それは信徒の幸運のために、神を崇め感謝する敬虔な儀式だった。ピルグリムが感謝祭と呼んだ最初のものは1623年に行われたものだった。この時、新たな移民と物資が到着するという知らせが届いたことに反応したものだった。この出来事は恐らく7月に起こり、まる一日の祈りと礼拝、およびささやかな祝宴が行われた。[38]
アメリカ合衆国ではこの出来事を記念して毎年11月末に、より適切な言葉「収穫祭」として祝われている。最初のお祭りは恐らく1621年10月早くに開催され、生き残ったピルグリム51名とマサソイトの一党90名と共に祝われた。この催しに関する3つの当時の資料が残っている。ウィリアム・ブラッドフォードによる「プリマス・プランテーションについて」(Of Plimoth Plantation)、エドワード・ウィンスローによる「モートの関係」(Mourt's Relation])、および植民地の書記官でブラッドフォードの甥だったナサニエル・モートンによる「ニューイングランドの記憶」(New England's Memorial)である。お祭りは3日間続き、入植者が購った多くの種類の水鳥、野生の七面鳥および魚と、インディアンが気前よく与えた5頭の鹿が饗宴に供された[39]
[編集] インディアンとの初期の関係
マサソイトとその一党が去ると、スクァントはプリマスに残って、ニューイングランドで生き残る方法をピルグリムに教えた。例えば死んだ魚を使って大地に肥料を与えることである。メイフラワー号が去って間もなく、カーバー知事が突然亡くなった。ウィリアム・ブラッドフォードがその後継者に選ばれ、植民地の成長期の多くの期間を引っ張っていくことになった。[40]